昭和四十五年四月十九日 朝の御理解
X御理解第九十三節 「神は一体じやによって、此方の広前へ参ったからと云うて別に異う所はない、彼所ではおかげを受けたけれど、此所ではおかげが受けられぬと云ふのは、守々の力に依って神のヒレイが異ふのぞ、神の守をして居れば諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは氏子が参詣の早い、遅いにかかわるぞ。」
これはあながち、金光教内だけの事ではないと思うのです。神は一体じやによってとおっしゃる。宗教におかげ御利益が伴わないとゆうやうなものはないと思うのです。只修養の為の教えとゆうやうな事だけで終わってみるとゆうのはないし、又あるとしてもそれではもう宗教ではないと私は思うですね。やはり助かりとゆうものが伴うておられなければならない。
そうゆう意味でおかげを下さると云うか、それは天地より他にないと思うのです。 それは仏教、キリスト教、日本内で云うなら様々な宗旨宗派が有ります。
けれどもね、やはりおかげの源とゆうのは天地より他にない。だから天地の心にどこかが通ずる。どこかが交う、どこかが交うルートをたどってくるのが私はおかげだと、こう思います。
例えば山に登るに致しましても同じ頂上に登るに致しましても登る道が違うだけだと、結局はその頂上をきわめるのだと、私はそうゆう表現は当たってないやうですけれども、今日の御理解から云うとそうゆう風に云ったが一番分かりやすいやうに思いますから、そうゆう風に申しました。登る道は違っても極める所は頂上だと、そうゆう意味が神は一体じゃによってとゆうところじゃないかとこう思う。
ところがですねぇ、頂上を極める事の出来ない、いわゆる になっておるとでも云いますかねぇ、大底登ったけれど、結局頂上には登れなかったと、云うならそうゆう宗教もたくさん有ったとこう思う。過去、現在をとおして、やはり極めるそこは頂上なんだけれども、頂上には到達してえなかったと、それでもやはり神さまの云うならおかげ天地のひとつの法則に従ってのものですから、おかげはやはり受けたと。
けれども、その守々の力と云うか、その宗派、宗派の教祖宗祖と云われる方達の頂き所と云うか題目がね、それぞれに違っておった。
そうゆう意味に於いてです。教祖の神さまの極められた所は大変な事だなと、他の世界の三大宗教と云われるやうな大きな宗教が何千年とゆう歴史を持って、なる程たくさんの信者は擁しておりますが、金光教の信心が何千年の後にはおそらく世界に行き渡る程しの内容を持っておると、私は思うのです。
私が最近申しておりますやうにキリスト教だって、仏教だってです。その説くところ、愛であり、慈悲である。けれどもその根底になるものはね、やはり和賀心にあるんだと。
だから、同じ例えばその宗教を目ざす人達ならね、和賀心学をもって説くならね、皆んなが合点するに違いない、とゆう程しのですね。私は普遍性を持った教えを持っているのが金光教だと思うのです。
だから、その守々の力によって違う、そのおかげを表していく間ですねえ。その人の頂き所によって違う、だからこれを小さく教団なら教団に当てはめましてもそうです。同じ教会はたくさん有る。けれども、確かにどこかが違う証拠には、たくさんな信者が出来ていく所もありやあ出来ない所も有る。
先日、山口から見えられました小笠原とゆう先生のお話しを聞いておりましたら、一本立の出来る教会はたくさん有るけれども、そんならその教会が世の為、社会の為、お役に立っているとゆうのはごくまれだとゆうのである。
その教会が維持出来る為の教会がほとんどだとゆうのです。中にはね、御本部から御援助を仰がなければ立ち行かんとゆう教会にも又相当有るそうです。 もう第一に相済まん事はたくさんな学院生が毎年出来ておるが、たくさんのお金を教団では使っておられるが、その中に何人お取り次ぎを頂くとゆうだけでもいいと言われるけれども、実際はね、道の教師の教職を頂くとゆう事によってね、帯には短し、たすきには長しといったやうな中途半端なお道の信者がどの位出来るか分からない。実に相済まん事だと云うて嘆いておられます。
ですから、確かにその守々の力とゆう事をね、感じます。
そこでね、私は合楽教会はどうゆう事になっておるだろうかと思うのです。同じ金光さまの御信心を頂きながら、云わば教祖金光大神が教えられた事をです。どのやうな風に表したり、それを金光大神の教えをどのやうに云わば皆んなに伝えておるかとゆう事。
我田引水のやうですけれども、私は考えれば考える程です。例えばお道の信心が只今申しますやうに世界のすみずみに迄ね、行きわたっていく、そうゆう、ひとつの内容を持っておるんだと、ところが同じ金光さまの御信心をです。説きましてもです。そうとばかりは云えないところも有る。それに私は対しましてね。例えば昨夜のお月次祭後の、お説教なんかを頂いておりますとね。まあ、私のお話しはいつもぶっつけ本番ですから、その事をお話しさせて頂いた事を後からじっと考えさせて頂いたとりましたらね。合楽の信心の素晴らしい、いわゆる教祖さまが教えられた信心を、このやうな言葉を使って、皆んなに分かってもらおう分からせようとゆう、その働き具合とゆうのがね、そうゆう意味で合楽は素晴らしいなあと昨日はつくづく思わせて頂きました。
それを思いよったら、ちった興奮したごとして、ゆうべやすまれん位にあった。だから、このやうにして神さまがです。分からせよう、おかげ頂かせようとなさっておられるそうゆう、そうゆう云うなら言葉を尽くしておられるのですから、私共が本気でまちっと、それを頂こうと研究しよう、自分のものにしよう、といったやうなね、意欲を示してゆかん事は相済まん事だなあと思わせて頂いた。
皆さんゆうべのお説教はどのやうな風に頂かれたんでしょうか、私はね、もう言葉を尽くしていわゆるかんで含めるやうに、分からせようとしておられる、それがよう感じられるとゆう実感でした。
そしてそれをつまびらかに自分の心の中に頂いてみてですたい。いわゆる合点がいく。なる程と合点をさせて頂いた訳です。
教祖金光大神と、大閤秀吉の例えばひとつの出世コースとゆうものを比較したら、しかもその世の中に大なり小なり同じやうな事が繰り返されておる、いわゆる栄枯盛衰の世の中とゆう事をです。説いて頂きましたですねぇ。
日吉丸から木下藤吉郎、羽柴筑前守、豊臣秀吉、豊大閤と、いわゆる人間の身でありながら、最高の栄誉を獲得した。一生の英傑と云うでしょうねぇ、だから皆んながですねぇ、例えば教祖の神さままでも同じ事、やはり一百姓でおありになりながら、その実意丁寧の生き方です、天地金乃神さまのお目にとまり、そこから段々御信心がお進みになられ、しだばの氏子、金子大明神とか、金光 とかとゆうに御神格が変られるに従ってです。生神金光大神と天地金乃神と同根とまで、たとえられる程しの御神格を頂かれた。そして、その金光大神が教えられた事と、大閤秀吉が世に示した事とです。どのやうな風に違ってきたかと、云わば一生一代の大成功ではありましたけれども、もうそれが三代にはよう続かなかった。
人間がどんなに力んで、どんなによい頭をフルに使って致しましても、本当の幸福とか、家繁盛、子孫繁盛とか日勝り、月勝り、年勝りのおかげの頂けられる道ではなかったとゆう事。
それを現代社会の在り方から云うてもです。そこんところ今度、御本部参拝なさった方はお聞きになられたでしょう。教 の御挨拶。素晴らしかったですね。そこんところを昨日新 が来ましたから、ちょっと読んでみましょう。
「今年は変革の七十年と云われ、これ迄意義ある価値あるものと、されたものを否定し、破壊してでも新しいものを生み出さねばならんとゆうやうな、厳しい動きまで起ている時代だとゆう訳です。
今迄、それは価値あるもの値打ちがあるもの、とされたもの迄です。一辺破壊してからでも、新しい時代を作らなければならんとゆうやうな、今年とゆう年は年柄だとゆう風に云うておられます。
又、冒頭にこうゆう事を云うておられます。「激動の今こそ、教祖の道に生き抜かん、道の実現としての会堂御造営を祈願」といったやうな言葉も出ております。
そうゆう激動の現実とゆうか現今であります。そうゆう中にあって、昨日私が申しました。「現代人の時代おくれ」とゆう事。現代人の時代おくれとゆう事をです。私は結局教祖さまが教えておられる、和賀心、人間の幸せの根底になるもの、何故和賀心にならせて頂けば人間が幸福になれるかとゆう事をです。あらゆる角度から、説いて頂いて、なる程、和賀心が根底になるものだと、その為に和賀心学をひとつ勉強しなければならん。
そうゆう私は、和賀心時代に突入すると、突入したんだと、いわゆる精神革命であります。いかに革命をさけんでもです。私は過去に難しい教えがどんなに有りましてもねぇ、そうゆうものは一辺こわしてからでもです。もう素朴に単純でいいですから、私共はこの和賀心にならせて頂かなければ人間の幸福がありえないとゆうやうな時代がです。ここに出来ないかぎり人間の幸せはもうありえないと、ゆう風に私は皆さんに聞いて頂いとる訳です。
いかに教祖さまの道に生きぬかんと、教祖の道に生きぬいて、しかもそれを道の実現としてそれを表していく、とゆう事がです。私は例えば教祖の神さまの御教をただこの一つにしぼってもいる。
だから、ここにたくさんな御教がある、その御教はです。その和賀心を頂く為の全てである、とゆう風な頂き方をしてもいる。単純ないろんな理屈を云わずに、そしてその和賀心を私共の心に育っていくとゆう事に従ってです。私共が幸福になってゆけれるとゆう道をです。示していかなければならん。
ですからね、そんならそうゆうやうな事をね、私が説いておるその事をです。よく検討してみてです。これは素晴らしい事だと。私は同じお道の信心でありましてもね。いわゆる守々の力によって神のヒレイが違うと、まあ私共が力を頂いておるとも思われませんけれども、その守々の説き方、お道の信心とはこうゆう信心だと、しかもです、人間が幸福に直結する生き方人間がもう絶対幸福になれれる道、それを和賀心のひとつにしぼらせてもらう。
どうゆう難しい、例えば教えでもです。ここのところに私は気付かせて頂くとゆう事がです。現代人としての急務だと、それを知ってはいない、分かってはいない人がです。現代人の時代遅れとゆう事になるとゆう風に、昨日は皆さんに聞いて頂きました。
あまりにも簡単、あまりにも単純のやうですけれども、人間がぎりぎり幸福になる事の為にはその単純な、その和賀心とゆうものを追及する以外にはないんだと、ゆう事を分かっての精神革命でなければならない。その為ならば、ここに教 が言っておられる、今迄どのやうに素晴らしい価値が有るものでもです。今年とゆう年柄はそれをうちこわしてでも新しい時代を作ってゆかねばならんと、いったやうな烈しい時代だと、私もやっぱそれを感じます。だから、今年こそは、今年こそはと申します訳ですがです。その焦点とするところは、私の場合は、和賀心です。
そしてこの事ならばです。そんなら頭の程度が少々低かっても、学問があっても、皆さんがその気になって下さりさえすれば、分かるやうに説いてあるとゆう事です。だから私は世界中に私が今云うておる事ならばです。段々、広め、おし進めていく事が出来るとゆう訳なんです。
それには本当に昨日、私が昨夜のお説教の中で申しましたやうにです、自分の云うならば、我情我欲をもってです、どのやうにたとえ成功して参りましてもです。それは云うなら、地盤のゆるい所に家を建てるやうなものであってです。それは人間の本当の幸福にはつながらない、それはひとつ大閤秀吉を見るがいいとゆうやうな意味だった。
確かに例えば人間の成功するとゆう人達がです。初めから、一足とびにぼんと成功するやうな事は有りえません。やはり、ぞうりとりから始めとります。そしてその名前が変わっていくやうに、いわゆる天下を治める程しの大変な成功をした、秀吉を見るが一番分かる。だから端的にですねぇ、単純に考えていると、そういろいろ思わずに、そこんところを例えば昨日はもののあわれが分かる程しの人ならばと云うております。だからそこんところをまずですねぇ、本当にそうだなぁとまずひとつ思わにゃいかんです。
自分が一生懸命がま出しよるが、お金貯めていきよるが、その貯め方でよいのか、そうゆうがま出し方でいいのか、そこにです。そんならもののあわれが分かる程しの人ならば、そこに心を気付かないはずはないとゆう事を、もう一生懸命、昨日は説いておりますです。
だから本当にそうだと今度は分かる程です。例えば信心しておってもです。只御利益、御利益だけで成功したと、それは本当なものではないとゆう事が分かったからです。そんなら本気です。いわゆる教祖生神金光大神がたどられたとゆうところの道を、私は和賀心ひとつにしぼって‥‥‥。
それはあらゆる立場、あらゆる人達がおりますから、その人達なりにです。結局和賀心はとゆう追求をです。ゆるめる事なしに、それをつとめていく。私はね、ここのところをこのやうに強調してお話しをしておるところがね、私は他の教会を違うところじゃないかと、こう思います。
守々の力によって神のヒレイが違うとおっしゃるのはです。いわゆる合楽に力があるか、私に力が有るかと云ういとね、ないですけれども。それを説いておるその事がです。間違いない事を説いておるんだとゆう事です。
だから、神さまが感動もして下さるだろう、神さまがいわゆる御発動して下さる訳がそこに有る訳です。それにこのやうにしてです。分かってほしい、このやうにして、分からせようとしてもおられても、それが分からなかったら、結局は又同じ事になる訳です。
先日、私が留守をした時、若先生が夜の御祈念を唱えてこうゆう事をその時の御理解に言ったそうです。私共は助けやうと思えば力がないけれども、親先生は助けやうと思われるなら、思われるだけの力を以てござる。そこに親先生と私の違いがある。親先生は助けるだけの力を以てござる、その力を以てごさるのにです。皆んながおかげを頂こうとゆう姿勢を示さない事はどのやうに親先生がはがゆい思いをしてごじゃるかと、ゆう御理解だったそうです。
私共は助けやうにも助ける力がない、親先生は助ける力をもってござる。その助ける力をもって言葉を尽くしてこう有らなければならんぞ、こうしなければ受けられんぞ、いくら言うてござっても、それにくいついてこない、それに応じてやうとしない、そこに親先生のはがゆさを感じていったやうな御理解だったらしい。
だから、私に助ける力があるとも思えません。けれどもですねぇ、ここんところを行じてゆけば、こうゆう生き方になれば、助かられるんだ人間が幸福になられるんだとゆう、いわゆる教祖のお言葉を実証していく事が出来るとゆう事をです。口をきわめてその事を、私がお話しをしておるのでありますから、やはり、その気にならなければ出来ない。それにはですね。本気でごまかし半分という言葉ではあてはまらんかも知れませんけれどもですね。
ただ自分が一生懸命がまだあたやりようがよかったけん、例えば家が立派になったとか、お金がもうかったといった様なものではね、いかにつまらんものかという事をです。例えば木下藤吉郎、大閤秀吉のそれからひとつ分れという訳です。そんなら皆さんの周囲を見て見なさい、大閤秀吉のような人がたくさんいるという事です。いや、そうばっかりなんだ、ね。
そこで私共がほんとうに心の眼を開かしてもろうてですね。本気で家繁盛であり、子孫繁盛であり、月勝り、日勝り、大勝り、年勝りのおかげの頂けれる道を本気できわめて教祖さまの御教を私共のおかげの上にあらわしてゆかねばならないとこういうだから、今年という年柄はそういう意味で大変な年だという事を皆さんもやっぱり自覚してなおさなければいけん。私が言っておる事を。同時におかげの受け方がです。いわゆる私の場合は願って願っておかげを頂けていうのではなくて願う事もありがたいけれども、おかげは和賀心にあるんだぞと最後にしめくくってある。そのおかげでなからなければ、子孫繁盛、家繁盛にはつながらないぞと私は言っておる。だから本気で和賀心学を修めてです。和賀心にならせて頂く為の信心をね本気で極めてゆかなければならない。私は今日はこの九十二節からね、神は一体じゃによってことを金光教だけの事ではなくてです。あらゆる世界の宗教の例をとってお話し申しました。ですから、成る程頂上を極めるという事に於いては同じである登る道がそれぞれ違うんだと、けれども私は何宗が途中まで何宗は八合目まで何宗は九合目までとは申せませんけれども頂上を極める事の出来なかった理由をです。私は和賀心を根底としてないというところに、それを感じます。ですから、教祖さまがおっしゃっておられる和賀心という事をもっともっと誰にでもわかりやすくとかして頂く事になったら信心のある者も、いわば違った信心をしておる人も成る程そうだと合点させられる内容をもっておる、それがね私は和賀心だという風に申しておる訳でございますね。だから、今度は金光教の教会という事になりますが金光教の教会の中でも守々の力によってヒレイが違うとおっしゃる守々の力という程しの力を私がもっておるとは思われませんけれども、ね。言葉を尽くしてですね、一番まちがいのない事を皆さんに聞いてもらっておるというところがね。私は神のヒレイが違うという事になっておるのではないかと思います。
これはおそらく私が十年後、二十年後になりましてもです。やはり、この事を極めてゆく事でありましょうが、皆さんもその気になって信心の稽古をなさらなければならないと思います。どうぞ。